■ 海へのまなざし    門田 修

 首をねじ曲げ、小さな窓から海を見る。海面から数千メートル上空を飛ぶ機内からは 、空とも海とも区別がつかない、朦朧とした青い大気が見えるだけだ。 いつの間にか大きな島の上空を飛んでいるらしく、下界が森の緑で暗くなり、しばらくすればまた海にでる。

 何百年か、何千年か前の人たち、いやいや、ほんの五十年も前の人たちは、海を渡って行った。大陸から島へ、島から島へと、移動した。上空から海を見ると、そんな人々の様子を思い浮かべる。それが機内で考えるにはふさわしいテーマに思える。

 ジェット機からプロペラ機に乗り換えれば、ちらちらとした波の白い頭や、ときには孤独そうに走り続ける船などを海面に見ることができる。島の縁を飾るサンゴ礁の縞模様や、濃紺の生地を点々と脱色したような大海のなかの礁湖など、まずは見つめていて 飽きることがない。 海の潮風を感じることはできなくとも、海を見ることはできる。あの島からこの島へと、船でゆくなら二日間かかる。この狭い海峡は潮の流れが速くて大変だ。おやおや、風が強そうだ。これでは今日は漁に出られないだろう。このあたりに国境線があるはずだ。などなど、機上から思いをめぐらす。

 もし、「海ってなんですか?」と聞かれたら、まずは自分の居場所をはっきりさせよ う。海をどこから見つめ、視線はどこに向いているのか、それにより、海はまるで違ったものに見えるからだ。そうでなければ「海」はどうとでも感じられ、なんとでも説明できる。たとえば、人の行き来を阻む壁の海、逆に開かれた道としての海がある。豊饒な海があれば、虚無の海もある。資源の海があれば海彼に常世を感じさせる海もある。 だから、海って何?という質問は成り立たないわけで、「あなたの」、「自分の」海なら答えることができるだろう。

 飛行機を降りて陸から海を見る。

 汗を流し、密林を通り抜け海の見える丘に立つ。遥かな水平線は足元に伸びている。 空は素晴らしくよく晴れて、沖合いをトコロテンのような貨物船が滑るように横切る。 何艘かの小舟が動く様子も見せず、網を入れているのか、釣り糸を垂れているのか、まどろむように、うねりに合わせて上下する。 「おーい!」と叫び、海の上を走りたくなる。あの海の彼方に別の世界があり、そこはここよりも住み心地がよく、宝物が隠され、死んだ人の霊魂が集まり、宴を開いている。そんな予感がする。

 丘を降り、渚を歩けば水平線は目の高さ。打ち寄せる波に足を濡らすか、あるいは、波を被らないように注意して歩くか、ちょっと考える。その時の気分しだいだが、もし 、マングローブ地帯なら、決心して、泥にはまりながら歩くしかない。砂地だったらリ ゾートのビーチ感覚で、不作法に歩けばいい。

 浜には漁船が引き揚げられ、カツオを燻製にしている。漁師たちは一様に目出し帽を かぶり、長袖シャツや毛糸のセーターまで着込んでいる。夜の海はそんなに冷え込むわ けではないけど、一晩潮風に吹かれていると体温はどんどんと奪われていく。朝になり、暑くなればなったで、その日差しのあまりの強さを避けるため、やはり長袖シャツが いいのだ。女性が日向にでるときは、もっと注意して、白い粉を練って顔に塗る。日焼 けはかっこいいものじゃない。やはり、少しでも色白であれば、都会に出ても恥ずかしくないから。

 荷物を肩や頭にのせて、遠浅の海を沖に向かって歩く人たちがいる。その先には島から島へと渡る、木造の貨客船が碇を降ろしていて、船員たちは船尾に突き出たトイレのそばで食事をほおばっている。港がないから、遠浅の海岸が船着き場だ。干潮時は客が乗る時間で、満潮になれば船は出る。短い煙突から真っ黒な煙をボンと吐き出し、貨客 船はゆっくりと船首を沖に向けて走り出す。

 造りかけの船がある。船底のほうの板は風雨に曝され、すっかり色あせ、陽に焼かれ 白っぽくなっている。手斧を振るう船大工がいて、話を聞けば、もう半年以上も前から船を造っているが、板を買うお金がなかったり、注文主がいなくなったりと、なかなか 仕事がはかどらないそうだ。おかしな形をした船なので、どうしてこんな形をしているのかと訊ねれば「ここではこれが一番いいのさ。昔からここの船はこんな形をしている 」と、その先を問うことがはばかられるように、毅然とした答なのだ。

 海のなかに曲がりくねった樹が一本たっている。島からマングローブの林がまばらに伸びていて、その一番端に樹は立っていた。背中を丸めて樹のてっぺんに男が腰かけているが、それがサルではなく人間だと分かるまでには暫く時間がかかった。男はいつま でも動かない。ひたすら海面を見続け魚が寄ってくるのを待つ。

 足を踏み外さないように、杭上家屋を結ぶ板の道をゆく。海の上の家には、血にまみれた魚が山積みされている。頭を取られたイルカがいる。マンタも赤い肉厚の筋肉を見 せている。鮫はだらしなく横たわり、大きな腹をみせている。アガルアガル(海藻)が干され、白蝶貝が並べられ、ナマコや、シャコ貝の貝柱が干してある。雨が降るときに洗った洗濯ものもついでに干されている。海の上には真水がないから、天水だけが頼り 。

 小さな売店には、隣の国のタバコが並んでいたり、中国製の懐中電灯が置いてある。 潮が引いた床下の泥土にはプラスチックの袋がうずたかく積もり、マングローブの 気根にゴミがひっかっかている。生活の場の海はとことん汚れている。

 漁船か貨客船か、あるいは不埒な海賊の高速艇か、はたまた密輸船か、どの船に乗り 込もうか。エンジンを備えた強化プラスティックの船であるか、鈍重な木造船であるか 、ペンキと塗料と油の臭いがするおんぼろ鋼鉄船でか、乗る船により海の見え方も変わってくる。

 船乗りたちは従順だ。船が自分たちの運命を握っているのだから、従うしかない。ただひたすら船が速く走り、目的地に無事到着することを願う。港でのトラブル、それは通関の問題や、乗組員の国籍とか、雇用証明とか、港の停泊料、代理店との関係など、 諸々の問題にいつも悩まされているわけで、気持ち良く航海できるのはまれだ。どういうわけだか、船主だけはちゃっかりと金儲けをして、新しく船を造るとか、大型テレビ を買ったりと景気がいい。

 海に飛び込む。追い込み漁だ。生温い熱帯特有の感覚で、空気も海も同じように身にまといつく。木でできた水中メガネをかけ、合板で作った足ヒレを履き、銛を持った少年も海に潜る。足をカエルのように拡げ、ゆっくりと泳ぐ。サンゴの住処から出てきた 魚の横腹に狙いをつけ、銛を打ち込む。手に魚の苦しむ痙攣が伝わってくる。毒の出る木の根っこをもち、サンゴの陰に腕を差し込む男たちもいる。 鉄の塊を抱え、その男は海に飛び込んだ。腰にはロープが結ばれ、右手にホースを握 っている。海底に着くと、男はホースをくわえ空気を吸った。ゆっくりと歩きながら真珠貝を探し、ナマコを拾う。

 海の底は竜宮城。人は生きているのか死んでいるのかも判然としない気分に襲われる 。天地左右も区別がつかない世界。 それぞれの人にそれぞれの海がある。海はいろいろな思いを抱かせてくれるが、峻厳でもある。海の底に裸でほんの数分間沈められれば、死んでしまうのだから。 

『海のアジア 1』 岩波書店 (2000年11月)に掲載


 
 
 ■ 漂海民モーケン族の今     宮澤 京子

 東南アジアのサンゴ礁の海で、船を住いとし、島々を移動しながら生きてきた人たちがいる。漂海民と呼ばれる人たちだ。フィリピン、インドネシア、マレーシアなど東南アジア島嶼部に広く分布していた漂海民。だが、現在そのほとんどは、船での生活を捨て、定住生活をしている。唯一、ミャンマーのアンダマン海に浮ぶメルギー諸島で、昔ながらの暮らし方を続けている漂海民がいる。最後の漂海民といわれるモーケン族だ。

 モーケン族が暮らすアンダマン海のメルギー諸島。大小800の島々からなり、そのほとんどは、原生林に覆われた無人島だ。ミャンマー政府は、ここへの外国人の立ち入りを50年間禁止してきた。だがそれが幸いし、美しいサンゴ礁、海に迫る島の密林、マングローブの林など、手つかずの自然が残る。 1997年、ミャンマー政府は、スキューバダイバーや調査船など、限られた外国人に対して島々への入域を許可した。

 漂海民モーケン族の生活は、東南アジアの海における、最も古い暮らし方である。

 モーケンとは、彼らの言葉で「溺れた人々」を意味する。神話によれば、遥かな昔、大洪水があり、海に取り残された。以来、モーケンは船で暮らしているという。

 そんなモーケンは、"カバン"と呼ばれる家船(えぶね)に住む。1隻に一家族が住み、10数隻の集団を組んでの生活。料理も食事も寝るのもこの家船の中。家族はいつも一緒だ。こうして船上生活をするのは、熱帯の森の中は蒸し暑くてマラリア蚊などの虫が多く、住むのに適していないからだ。海には蚊はおらず、船上は風が通り過ごしやすい。また、船に住めば、食料や現金収入となる貝やナマコなどの海産物を求めて、いつでも移動することができる。豊富な有機物をサンゴ礁の海にもたらすマングローブは、多様な生物を育む。モーケンの暮らしは、そんなマングローブの浅瀬に支えられている。干潮の時、干上がった浜辺で、盛んに貝採りをする。テングガイ、ハボウキガイ科の貝などだ。貝柱は干して売る。高級中華料理の食材であるナマコも、モーケン自身は食べないが、売るか米と交換する。岩場に付いたカキは、モーケンが大好きなおかずだ。貝もナマコも、海辺を歩き、ひとつひとつ小さな道具を用いて採るのだから、採り過ぎることはない。満潮になれば、採った貝やナマコを、陸で茹でては干す。森の中の水汲み場までは、満潮を利用して小舟で近づく。そこには、潮の干満に従って生きる、穏やかでささやかな暮らしの姿がある。

 だが、最近、こうした豊かな海の産物を求めて、ミャンマー本土から多くの漁師がやってくるようになった。コンプレッサーを備えた船は、ナマコ採り専門の船だ。漁師は、チューブをくわえてコンプレッサーから送られる空気を吸い、ウェイト代わりに大きな石を担いで潜水する。そして、水深15mの水中を走るように動き、ナマコを採る。たった一本のチューブに命を託した危険な作業だが、一回20分の潜水を一日10回程繰り返し、大量のナマコを入手する。ナマコはアジアの都市での需要が高まっており、いい儲けになるのだ。まさに採り尽くさんばかりの勢いで水中を動き回りナマコを採る漁師たち。すでに水深の浅いところにいるナマコは減ったため、漁師はさらに深いところを目指して潜る。不法なダイナマイト漁も行なわれている。高値で売れる大型の魚を目掛けて、ダイナマイトを放り投げるのだ。魚は爆発のショックで簡単に死ぬ。さらに、ダイナマイトはサンゴ礁を破壊し、周辺の小魚をも殺してしまう。ダイナマイト漁が美しいサンゴ礁を破壊しつつある。

 こうした乱獲と不法な漁は、今、東南アジアの海で深刻な問題になっている。ここメルギー諸島も例外ではなかった。モーケンにとって、現金になる大切な貝やナマコが減ってしまった。モーケンの生活の海は狭まり、働き盛りの男たちは、村へ出稼ぎに行ったり、漁船に雇われるようになった。海の事故で死ぬ男たちも多いという。女ばかりが住む家船もあり、家船集団では女の姿が目立つ。

 家船はモーケンにとって、家であり、仕事場であり、自然と接する大切な道具である。木造の船が痛まないように、定期的に火であぶり船に虫がつかないように気をつけ、何より大切に扱ってきた。だが、近年、ミャンマー政府がモーケン用の住宅を建設した。教育を受けさせ、健康の管理をするため、政府はモーケンに定住を奨励しているのだ。モーケンはこれまでも、海が荒れる雨季の間を、浜辺の小屋で過ごしてきた。それはあくまで雨季の間の仮住まいであり、海が穏やかになれば家船に戻る。家船の生活を最も愛しんできた。しかし、海の状況は変わりつつあり、定住住宅に移り住むモーケンは、数こそ少ないが、確実に増えている。家船を捨ててここに移ったモーケンの女性は述懐する、「家船の生活の方が楽しかった。モーケンは、家船に住むものです」。

 東南アジアのサンゴ礁の海は、その豊かさ故に、様々な思惑を持った人たちがやって来るようになった。漂海民モーケンの暮らしを支えてきた海。その豊かさは、いつまで持続できるのだろうか。


 
 
 ■ インドの木造貨物船が「みちのく北方漁船博物館」に到着

 2000年2月19日、激しく雪の降りつづける青森港に遥々インドから木造貨物船アル・アジズ号がやってきました。乗っているのは6人のミャンマー人船員。この船は一般的にはダウと呼ばれているインド洋の木造貨物船で、大きな三角帆を備えた機帆船です。こんなダウが日本まで自走してきたのは、初めてのことです。青森市にある「みちのく北方漁船博物館」に展示するためにやってきました。  わたしたち海工房はインドのグジャラート州ジャムサラヤでアル・アジズ号を見つけるときから、博物館のお手伝いをしてきました。 10月にインドを出航してから5ヶ月近くもかかりましたが、無事日本に到着したことを喜んでいます。

アル・アジズ 【AL AZIZ】 について
 インドとアラブの交易船として使用されていたダウです。インド製(インド船籍)の木造貨物船で、ダウのなかでもこのタイプの船はサフィーナとインドでは呼ばれています。通常は船員は十人ほど乗っていて、毎年9月には母港のジャム・サラヤを離れ、ドバイに向かい、そこからソマリアやペルシャ湾内での交易に従事します。翌年の6月に母港に帰り、補修をします。船員たちにとって7月8月が夏休みです。

 普段はエンジンで走っていますが、風がよければ燃料の節約やスピードをあげるために帆を揚げ、機帆走します。約9ノットほどでます。アル・アジズはインド洋を走っていた現役のダウです。

   アル・アジズ号
      建造地 インドのグジャラート州ジャム・サラヤ町
      建造年 1981年
      大きさ 63トン
      長さ 24.3メートル
      幅 5.2メートル
      深さ 3.0メートル
      船材 インドチーク材

   インドより青森までの廻航ルート
      1999年10月 インド出航   
      12月 シンガポール入港→ヴェトナム    
      2000年1月 台湾      
      1月 沖縄   
      2月 清水→鹿島→八戸→青森 到着

ダウとは
 
インド洋を中心にペルシャ湾や紅海で交易に従事している木造貨物船の総称です。ダウにはいろいろな型がありますが、共通しているのは大きな三角帆(ラティーン・セール)を備えていることです。船乗りたちはアラブ・イラン・アフリカ・インド人など、インド洋をとりまく国々の男たちです。

起源
 ちょうどシンドバッドの大冒険に描かれているようにイスラーム教徒が勢力を拡大した7世紀以降から、アラブ商人がダウに乗って海に乗り出しました。交易範囲は東は中国の泉州から南はアフリカ東海岸のザンジバルまで、インド洋全域にわたります。

 そのころの交易船と基本的にはあまり形が変わることなく、現在まで利用されているのがダウです。エンジンが着く以前は冬の北東モンスーンを受けてペルシャ湾の、メソポタミアから船出をしてインド洋を渡りました。そして季節風が南西に変わる4月ごろ、インドやアフリカからアラブに向かいました。今もインド洋が荒れる7月8月の2ヶ月間は小さなダウは走ることができません。

 昔のダウは板と板を縫い合わせて造っていました。その方法は板に穴をあけて、ヤシ殻繊維から作った紐を通して結び合わせました。船釘を作る鉄が手に入らなかったわけではなく、インド洋の底に大きな磁石の山があると信じられていたからです。もし板を鉄釘で打ちつければ、インド洋を渡るとき釘が抜けてしまい船がバラバラになると恐れていたのです。今もインドの海岸では船を縫い合わせて造っています。

 9世紀から10世紀ごろ、アラブやペルシャの船乗りたちは遠く、中国まで交易にでかけていました。そのころ泉州には9万人ものイスラーム商人がいたといいます。このころ中国に行った船も縫合船だったようです。11,12世紀にはアラブからたくさん馬がインドに運ばれました。その数は年間2千頭にもたっしたといわれます。

現在のダウ
  ペルシャ湾・インド洋の沿岸諸国では今も木造貨物船のダウが様々な雑貨を積んで行き交っています。特にアラブ首長国のドバイは一大交易拠点となっています。また、インドやパキスタンとアラブ諸国、あるいはアフリカのソマリアなどとの貿易もダウが担っています。ダウはセメントや鉄屑、肥料、マングローブの木、砂利、お茶など、なんでも運びます。

 ダウの利点は大型船の着かない港や、量は少ないが多品種のものなどに対応できることです。それ以上に長い歴史に培われた交易ルートや人脈がダウが今も活動できる大きな理由でしょう。

 ダウの船乗りたちはみんなイスラーム教徒です。ですから航海中でも一日5回の礼拝は欠かしません。イスラーム教徒は偶像を拝むことを禁止していますので、ダウの船体に彫られた彫刻は抽象的な模様になっています。コーランの一節をアラビア文字で彫ったものもあります。

 船には船員たちの部屋はありません。舵やコンパスなどの航海道具がある、操舵室が唯一の部屋で、そこには船長が寝るベッドがありますが、ほかの船員たちは積み荷のあいだや、操舵室の屋根で寝ます。ですから航海中は大変厳しい状態に耐えなければなりません。水は大きなタンクにいれてあります。冷蔵庫がないので、食事は塩漬けや乾燥した魚をカレーのように煮込んで食べます。港につくとヤギを一頭かってきて、解体して食べたりします。

 ダウは形が決まっているので、設計図もなく造られます。そのとき、長さを測るには折り曲げた腕の肘から指先までを一つの単位(セラ)とします。

特徴
 船底には太い竜骨が1本通っていて、そこから太い肋材がたくさんの立ちあがっています。そこに舷側板が鉄の船釘でとめられています。ですから船体には多くの船釘の頭が見えます。板と板はは重ね合わせない平張りです。

 船尾が船首と同じように尖っています。これはダブル・エンダー型と呼ばれ、古くからの船形です。 舵は甲板の上まで高く伸びた舵柄に横木をとりつけ、そこからロープを引っ張って、舵輪に絡ませてあります。横木を前後に引くことにより、舵は向きを変えます。

 トイレは船尾左側につけられた半円形の箱です。 炊事は前方の甲板上に置かれた箱のなかでします。昔はマングローブの木から焼いた炭を使っていましたが、いまはプロパンガスや石油コンロを使っています。

 最大の特徴は太い帆柱と大きな三角帆です。正確には三角形の一端は切られているので、変形の四角形です。帆桁に帆を結びつけ、上の方まで揚げます。重い帆桁を揚げる作業には10人ほどの人手が必要です。

 喫水線の下、船底は鮫や鯨などの油と石灰を混ぜたものを塗り付けています。上の方、乾舷は色を塗らずに板に油を塗るだけです。板と板との隙間をふさぐ充填材としては、原綿やヤシの繊維を油に浸して叩きこんでいます。



  ■ 歴史を語る映像    門田 修

 「あなたはヴァスコ・ダ・ガマを知っていますか?」

 こんな質問をしつつ、ポルトガルからアフリカ最南端の喜望峰をまわり、インド、アラブ、マラッカ、インドネシア、マカオ、日本まで取材旅行をしてきた。

 去年はヴァスコ・ダ・ガマがインド洋を渡って五百年目にあたった。今年はポルトガルの植民地マカオが中国に返還される。フランシスコ・ザビエルが日本に布教にきて四百五十年目でもある。来年はポルトガル人カブラルがブラジルに漂着して五百年になる。ヨーロッパにおける大航海時代(地理的発見の時代)から、節目となる年がこのところ続いている。そこで、アジアやアフリカの立場から大航海時代を見直してみようと、歴史紀行ビデオを作ることにした。 二年間かけて、取材に出ては、帰ってきて編集するという作業を繰り返し、全十一巻(各八十三分)をこの五月に完成させた。

 ところで、最初の質問にたいしては、当然のことながら、ヴァスコ・ダ・ガマが寄港したところではよく知られていたが、他の場所ではほとんど「知らない」「聞いたこともない」という答が返ってきた。ポルトガルではヴァスコ・ダ・ガマは国民的英雄だが、町の人たちは知っているが、海に関係が深いからと、漁師に訊ねてみても、あまり知られていなかった。つまり、学校に行かなかったから、ヴァスコ・ダ・ガマについて教えてもらっていないと言うのだ。「小さい時から海が学校だったから、歴史のことは知らない」それが漁師の返事だった。

 意外なことに、南アフリカではよく知られていた。考えてみれば、アフリカの南端に白人の国ができたのは、大航海時代以来、白人がアジアへの中継港、つまり、船宿としてケープタウンを利用したことに始まる。白人国家としての存在理由は大航海時代に求められるわけで、それだけに学校ではその時代のことをよく教えているのだ。

 そのほかの地域では、答はその人が学校で習ったことをどこまで覚えているか、あるいは、もっと端的に言ってしまえば学歴や教養による。だから、ヴァスコ・ダ・ガマを知っていますかと、質問するのがだんだんつまらなくなった。あまりに遠い過去の話であり、それは単に知識としてもっているか、いないかの差でしかないと気づいたからである。

 わたしが映像で表現したかった大航海の歴史は、そんな知識として閉じこめられた過去の出来事を掘り起こすことではなかった。

 ここで、映像表現について、技術的な話をするつもりはない。だが、歴史を語るには、どうやら三種類の映像があるようだ。その三種類の映像をどう組み合わせるかが、歴史の捉えかたと密接な関係をもつと思う。

 まず最初に基本となる資料映像がある。古い絵画、文献などを博物館で撮った。いくつもの銅像も撮影した。エンリケ航海王子、マヌエル王、インド洋を武力で制圧したアルブケルケ、不帰の岬といわれたボジャドールを越えたジル・エアネス、喜望峰をヴァスコ・ダ・ガマより十年も早く回ったディアスなど、数え上げればきりがない。墓地も訪れた。それらは話を進めるための背景となるカットといえる。悪くいえば、電気紙芝居で語るための絵である。

 自然もまた、重要な撮影対象だ。ポルトガルのサグレス岬やロカ岬など、その景観は五百年前とそれほど変わっていないだろう。そういう前提のもとに、過去の出来事を髣髴とさせるために必要だ。

 昔ながらの自然景観、墓、銅像、文献資料、絵画資料、コイン、建物、こんなものは歴史上の「事実」として、映像に納める。しかし、みんな動かないものばかりで、ある程度の知識をもち、見る側が積極的に感情移入しないと、単なる石っころや紙っきれにしか過ぎないものたちだ。

 二種類めは、歴史を語るような技術、行動様式だ。たとえば、インド西海岸では船を縫い合わせて作っている。板に穴を開け、ヤシの繊維で作ったロープを通して、板と板を結び合わせた船だ。マルコポーロが目撃したものと、同じ技法がそのまま残っている。これは感激する光景だ。縫合船により、ヨーロッパ進出以前のインド洋海域について語ることができる。

 同じくインド北西部の絣工房を訪ね、絣の技術が大航海時代にインドネシアにもたらされたと、物語ることもできる。

 いまだに、こんな技術が残っていて、それが広く伝播したと、歴史を目で見る形で表現することができる。俗な言い方をすれば、映像になりやすい題材である。

 三つめは、現代の人のつながりだ。これも例を挙げよう。東アフリカのタンザニアにある、小さな島でのこと。スワヒリ文化が繁栄していたころペルャ人が築いたといわれる宮殿の廃墟がある。その近くに、白い肌をして、黒々とした髭を蓄え、一見して、アラブか中近東の人とわかる人々が住む集落があった。アフリカの小さな島のなかに、大航海時代が始まる数世紀も前に形成されたスワヒリ世界を見せつけられた思いがした。あまり周囲とは交流がないらしく、子どもたちも白い肌をしている。

 ハドラマウト(イエメン)の内陸では、インドネシアからイスラームの勉学にやってきたという留学生たちにあった。東南アジアにイスラームをもたらしたのは、多くがハドラマウト出身のアラブ人だという。その子孫だと自負する若者達が、緑濃いインドネシアからはるばる、砂漠と岩に囲まれたハドラマウトの奥地までやってきているのだ。

 マカオでは東ティモールから逃げてきた人々にあった。マカオと東ティモールがポルトガルという、かつての大海洋帝国の名残として、今も密接な関係にあるのだ。マカオではモザンビークからの牧師とも会った。みんな遥かな過去からのつながりである。

 それぞれ、質、内容の違う三種類の映像を組み併せつつ、映像で歴史を語る。

 それぞれが断片である。ちょうど海岸で陶磁器片を拾い集めるようなものだ。資料篇は壷の底にあたる。そこには銘が書かれているかもしれない。年代を確定し、間違いなくその時代のものであると話すことができる。技術篇は粘土の質や焼き具合をあらわし、どこで、いつごろ、どんな技術水準でつくられたか証明する。

 そして、人の関係は、断片に美しく描かれた模様ではないだろうか。そのころ、人は何に興味をもっていたか、人の感情、望みを推し量ることができる。

 こうやって断片をかきあつめ、合わないところ、欠損したところがいくつかあっても、なんとか観賞できる壷としてつくりあげる。歴史を映像で表現するというのは、こんな作業ではないかと、今は思う。

 ところが、もう一つ大きな問題がある。それは組み立てた壷、あるいは大皿をどう使うかだ。壷や皿に何を入れるか、何を盛るか、さらに、使い勝手はどうか、実用的なものであるかにより、評価は決まる。

 比喩はやめて、映像の話にもどる。作品が鑑賞者にどんな感動を与えるか、何か問題提起できるのか、観る人の実生活と何らかの関係、接点があるのかが、その作品の評価にかかわってくる。つまり、役に立つ歴史物語ができたかどうかだ。しかし、そこは、すでに制作者の手を離れたところでの評価である。

岩波講座 世界歴史6 月報21(1999年7月)に掲載


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